ウサギのブログ

ナンパ、その他適当に綴っていきます。

それをお金で買いますか【読書メモ】

f:id:usagiq:20150112141646j:plain

お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。 

「お金の理論」(=市場主義)が、私たちの生活を侵食してきていることに対する問題提起の本。どうでもよいが、著者のサンデル教授は、ロシアのプーチン大統領に似ている気がする。

 

目次

序章 市場と道徳

第1章 行列に割り込む

第2章 インセンティブ

第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか

第4章 死と生を扱う市場

第5章 命名権

謝辞 

訳者あとがき

原注

 

冷戦が終わると、市場と市場的思考は比類なき威光を放つようになった。それも無理はない。物の生産と配分を調整する他のいかなるメカニズムも、富と繁栄を築くことにかけては、市場ほどの成功を収めたことがなかったからだ。

著者も、市場主義の合理性は認めている。ソ連をはじめとする社会主義国家の崩壊により、計画経済の限界が証明されたからだ。市場主義のおかげで世界は確実に発展している。その上で著者はこう主張する。

こんな生き方がしたいのかどうかを問うべき時がきているのだ。

 

特に、過去にない分野への市場の進出に気をかけている。

健康、教育、公安、国家の安全保障、刑事司法、環境保護、保養、生殖、その他の社会的善の分配にこうして市場を利用することは、30年前にはほとんど前例がなかった。

 

貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。

 貧困家庭や中流家庭が厳しい生活を強いられる理由をこう説明する。なんでもかんでもお金を要求される世の中では、「お金がなくてもなんとかなる」ということがなくなってしまうのだろう。

 

われわれは市場経済を持つ状態から、市場社会である状態へ陥ってしまった。

 これが問題の本質だ。市場それ自体は良くも悪くもない。市場をうまく利用していたはずが、いつのまにか市場に支配されてしまっているのだ。

 

リューマチの治療の予約に100ドルの価値があるとすれば、自分や病院ではなくダフ屋がほとんどのお金を懐にするのはなぜだろうか?

 ダフ屋行為は、需要と供給を調整し、適正価格を導き出してくれるので、経済学的には合理的だ。しかし、なんの価値も生み出さないダフ屋が儲けること、及び、金持ちだけが優先的に医療を受けることができる、という点が道徳的議論を呼びそうだ。

 

マネーボールは、少なくとも長い目で見れば、弱小チームのための戦略ではないことが明らかになった。

映画「マネーボール」は、ブラッドピットが冴えないオタクとコンビを組み、統計手法を用いて割安な選手を集め、弱小チームを大躍進させるという内容だった。だが、その統計手法が裕福なチームにも知れ渡ると、割安だった選手の評価と年俸が上がり、資金力が直接チーム力を左右するようになったという。皮肉な話だ。

そういえば藤沢和希さんの本に、「投資の世界にも数理解析や統計手法が浸透していて、割安な株なんてほとんど存在しないから、インデックスファンドでも買っとけ」みたいな内容があった気がする。なんとなくマネーボールの話に通ずる気がした。

 

栄養ドリンク、携帯電話会社、洗濯用洗剤、地元の配管資材店などのロゴや宣伝文句印刷したビニール素材で車を覆えば、広告代理店から1ヶ月に最高900ドルが支払われる。

このシステム、日本にもあればうれしい。車はお金がかかりすぎるから、敬遠して持ってなかったけど、ランニングコストが相殺されるくらい広告費用もらえるなら、買っても良いかな。

 

それぞれのケースごとに問わなければならない。

 子供の命名権を企業に売る。野球のスタジアムに広告を掲載する。この2つのケースを考えた場合、前者は納得できないが、後者は普通のことだと思う。何を市場に委ねるかは、所有権や公正さを考慮し、社会的慣行や道徳に照らし合わせ、個別に考えなければならないと著者は主張する。

 

広告をまとった警察車両が登場するかもしれないという見通しに、賛否両論が巻き起こった。・・・必要不可欠なサービスへの資金投入に対する一般市民の意欲に水を差すという主張もあった。

公共サービスへの一般市民の関心の低下は、市民社会の根底を揺るがしかねない問題だ。市民が全てを市場に委ね、一部の有力者が自身の周りだけサービスを充実させる様を想像すると、それは封建社会の領主そのものだ。

 

この善やあの善の意味を論じることに加えて問う必要があるのは、われわれはどんな種類の世界に生きたいかという、もっと大きな問いだ。・・・お金で買えるものが増えれば増えるほど、異なる職種や階層の人たちが互いに出会う機会は減ってゆく。野球の試合を観に行き、スカイボックス(ウサギ注:VIP専用のガラス張り・シャンパン付の席。多額の席料が必要。)を見上げるとき、あるいはスカイボックスから見下ろすとき、それがわかる。かつて球場で見られた、階級が交じり合う経験の消滅は、見上げる人のみならず見下ろす人にとっても損失だ。

貧富の差は昔からあったが、あまりにもお金でどうにかなるものが増えすぎると、ただ単に豊かな生活を送ることだできること以上の差がついてしまうのだ。新たな階級社会と言っても良いかもしれない。そのことの良し悪しは判断しかねるが、市場主義の導入による影響は、みんな認識しておいたほうが良いと思う。

 

【感想】

サンデル教授の以前の著書、「これからの「正義」の話をしよう」を読んだときにも感じたが、これは、いわゆる答えのない問題だ。時代とともに移ろいゆく価値観の中で、絶対的に正しいものなど存在しない。

常に学び、時代の変化について行き、自分で価値判断できるような人間になりたいと思う。

 

このブログの収入の10%以上は、世のため人のために寄付されます。